日系 Nikkey パートナーズ

日系人、ボランティア、開発について、自分の勉強のためにも書いていきます。

クリスチャン・イエリチ(Christian Yelich)、日系三世、首位打者も狙える若き天才打者、WBCでも活躍

WBCでも活躍したフロリダ・マーリンズのクリスチャン・イエリチは、母方の祖父が日本人で、日本人の血が1/4流れる、いわゆる日系三世です。父方はクロアチア移民の家系。彼の血筋として注目されているのは、母方の曾祖父がNFLで殿堂入りを果たしているフレッド・ジャークであること。ちなみに、弟のコリン・イエリッチも2015年にドラフト29巡目でアトランタ・ブレーブスに入団した捕手で、2016年に兄と同じマーリンズマイナー契約をしています。

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 1.イエリチ選手の経歴

 クリスチャン・イエリチ選手は1991年12月5日生まれの25歳。カリフォルニア州出身で、ウェストレイク高等学校時代から野球で活躍。全米の高校野球選手トップ100のなかで34位にランクもされています。高校卒業後はカレッジの野球チームから奨学金を得ていましたが、マーリンズからのドラフト指名を受けプロ入り(高卒の外野手でこの順位での指名というのは相当の評価)。マイナーリーグでも順調に成績を残し、 2011年、2012年シーズンはマーリンズの優秀マイナー選手(Marlins' Minor League Player of the Year)に選ばれています。そして、2013年は弱冠21歳で2Aからメジャーに昇格しています。

生年月日:  1991年12月5日(25歳)
生まれ:  カリフォルニア州ベンチュラ郡サウザンドオークス
身長:  6' 4" =約193 cm
体重:  195 lb =約88.5 kg
投打:  右投左打
出身校:  ウェストレイク高等学校
プロ入り:  2010年のMLBドラフト1巡目(全体23位)

 

2.プロ入り後の活躍

 2013年7月23日のコロラド・ロッキーズ戦で2番・左翼手スタメンでメジャーデビューすると、いきなり4打数2安打。結果、2013年シーズンは62試合に出場して打率.288・4本塁打・16打点・10盗塁という成績を記録。
2014年シーズンは開幕から左翼手のレギュラーに定着し、144試合に出場。打率.284・9本塁打・54打点・21盗塁・出塁率.362という成績を記録。また守備力が高く、ゴールド・グラブ賞を受賞しています。
2015年シーズンは故障もあり126試合の出場に留まったが、規定打席には2年連続で到達。打率.300・7本塁打・44打点・16盗塁という好成績を残しました。
2016年シーズンは更に才能が開花。155試合に出場し、打率.298・21本塁打・98打点・9盗塁・出塁率.376というトップレベルの成績を収めています。この打撃面での活躍ぶりが評価され、シルバースラッガー賞ナ・リーグの外野手部門で受賞しました。

 

3.WBCでは侍ジャパンのメンバーになりえた?

昨年あたりのニュースでは、侍ジャパン入りもあり得るのではないかというニュースも出ていました。米国チームの外野手に選ばれるのは至難の業ということもあり、イエリッチ選手も「もし、出られるなら、もちろん日本チームで出たい」と乗り気との報道(リップサービスかもしれませんが)。ただし、WBCの規定では両親のいづれかが日本国籍または日本生まれである必要があり、厳密には日本代表になる資格はありません。過去の大会では柔軟に対応した例もあることから一部には期待する声も出ていました。

sports.yahoo.co.jp

favsports.net

しかしながら、当然といえば当然ですが、イエリチ選手は2016年シーズン終了後、第4回WBCの米国代表への参加の意思を表明し、選出されました。

m.marlins.mlb.com

そしてWBCでは全ての試合に出場し、外野のレギュラーとして大活躍を見せています。

www.daily.co.jp

 

4.今後の期待

イエリチ選手が子供のころに憧れた選手はデレク・ジーター。その理由は「彼は誰もが認める勝者。選手としても万能だし、チームに貢献しようとする姿勢が素晴らしい」ということ。マーリンズは2015年にイエリチ選手と7年契約延長に合意。総額4,957万ドル(当時のレートで60億円近い額)という大型契約を結んでいます。ジーターのような走攻守3拍子揃った選手として、更なる飛躍を期待しています。

full-count.jp

 

『七人のトーゴー』戦後アメリカで日系人が咲かせた毒の花

村松友視氏の日系人悪役レスラーを題材にした『七人のトーゴー』を読みました。村松氏は直木賞を受賞した『時代屋の女房』などで有名ですが、1980年代、90年代は『私、プロレスの味方です』を始め、プロレスファンのオピニオンリーダーでもありました。この『七人のトーゴー』は1982年に出版されており、プロレスの書籍を積極的に出版していた時代のものです。(表題も含め、計6つの短編集)

七人のトーゴー (文春文庫 (328‐1))

七人のトーゴー (文春文庫 (328‐1))

 

 物語は洋書店で手に入れたアメリカ「レスリング」誌に「七人のトーゴー」という不思議なタイトルの記事を村松氏が見つけたことに始まります(本人が登場するノンフィクション仕立て)。記事によると、「七人とトーゴー」とは、第二次世界大戦後、アメリカに排出した日系人プロレスラー七人の総称。いずれも真珠湾奇襲攻撃にイメージされる「卑怯なジャップ」像を使って、アメリカ人観客の憎悪をかうことで人気と財産を得悪役、ということです。具体的には、グレート東郷、トシ東郷(ハロルド坂田)、ミスター・モト、キンジ・シブヤ、オーヤマ・カトー、デユーク・ケムオカ、グレート・ヤマトの七人

この記事を契機として、私こと村松氏は「七人のトーゴー」のイメージの原点である真珠湾奇襲攻撃の現場を見るためハワイに旅に出ます。そこで日系レスラーの活躍ぶりについて聞き出すため、力道山時代のレフリーとしても有名な沖識名へインタビューしつつ、「七人のトーゴー」などについて思索するという内容です。

この「七人のトーゴー」それぞれについて、他資料から調べてみた内容をまとめます。

 

1.グレート東郷

本名:George Kazuo Okamura

日本名:岡村 一夫(おかむら かずお)

1911年10月11日 - 1973年12月17日

オレゴン州フートリバー出身

終戦直後にまだまだ残っていた反日感情を利用してヒールとして活躍。当初のリングネームは「軍国主義の頭目」と見られていた東條英機の苗字にあやかった「グレート・トージョー」。しかし「東條」の名字をそのまま使うのはあまりにもアメリカ人を刺激しするとの判断から、同じく著名な軍人である東郷平八郎にあやかって「グレート東郷」に変更したと言われる。窮地に陥ったときの卑屈な懇願のあとの「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」などの反則技を売り物とした。卑屈に許しを乞うた後のいきなりの反則は、当時のアメリカ人の観客に「日本軍のだまし討ち」とされていた真珠湾攻撃を連想させ、大いに怒りをかった。このトーゴーのスタイル(卑劣かつ姑息な反則技や薄ら笑い、東洋風のコスチューム、塩をまく「儀式」など)はその後しばらくの間アメリカにおける日本人および日系アメリカ人ヒールレスラーの雛形となり、他の日系人レスラーに受け継がれている。ちなみに、日本のリングでは、頭突き攻撃や空手チョップなどの技を使い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した。

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2.トシ東郷(ハロルド坂田)

本名:Harold "Toshiyuki" Sakata

日本名:坂田敏行(さかた としゆき)

1920年7月1日 - 1982年7月29日

ハワイ州ホノルル出身

プロレス入りする以前にはロンドンオリンピックの重量挙げ(ライトヘビー級)ではアメリカ代表として銀メダルを獲得。プロレスでは反日感情を利用したヒール(悪役)として活躍。またグレート東郷の弟、トシ東郷を名乗り、タッグチーム「トーゴー・ブラザーズ」としても活動。1964年には映画『007 ゴールドフィンガー』でツバに刃物を仕込んだ山高帽を投擲する用心棒のオッドジョブ(Oddjob)を演じ有名となった。

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3.ミスター・モト

本名:Masaru "Charlie" Iwamoto

日本名:岩本勝(いわもと まさる)

1915年8月11日 - 1991年7月6日

ハワイ州ホノルル出身

リングネームは1930年代にヒットした日本人探偵を主人公にしたコミック「ミスター・モト」から取ったもの。ハワイ相撲の横綱を経てプロレス入りし、キンジ渋谷とのタッグで様々なタイトルを取り、またミスター・サトー大木金太郎)とのコンビでWWA世界タッグ選手権を獲得するなど活躍した。

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ちなみに、このリングネームの由来となる日本人探偵「ミスター・モト」は以下に詳しい。

matome.naver.jp


4.キンジ・シブヤ

本名:Robert "Kinji" Shibuya

日本名:渋谷 金持(しぶや きんじ)

1921年5月16日 - 2010年5月3日

ユタ州出身(ロスアンジェルス育ち)

グレート東郷の影響下にある日系ヒールとして、現役選手時代は地元のロサンゼルスやサンフランシスコなどアメリカ西海岸を主戦場に活動。マサ斎藤をはじめ、海外武者修行に出ていた日本人選手を公私に渡ってサポートし、彼らのメンターとなったことから「神風親分」の異名を持つ。

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5.オーヤマ・カトー

本名:Shinichi "Stanley" Mayeshiro

1919年1月7日 - 1961年1月9日

ハワイ出身または沖縄出身のハワイ移民

マネージャーのミスター・スギを引き連れてリングに登場。小柄ながらもテクニシャンだったといわれる。オハイオを中心に活躍し、オハイオ・タッグをタロー・サクローとのコンビで獲得している。活動期間は短く、1961年にテキサス州ヒューストン(カナダのバンクーバー説もあり)でジョー・ゴードンとの試合中に心臓部にドロップキックを受けてショック死するという悲惨な最期を遂げた。

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6.デユーク・ケムオカ

本名:Martin Hisao Tanaka

日本名:田中久雄(たなか ひさお)

1921年4月22日 - 1991年6月30日

カリフォルニア州サクラメント出身

テキサスやフロリダなどのアメリカ南部を主戦場に、同時代の日系レスラーと同じく戦後の反日感情を利用したヒールとして悪名を馳せたが、キャリア後半はベビーフェイスのポジションでも活躍した。アントニオ猪木グレート草津など海外修行時代の日本人選手のタッグパートナー兼メンターも担い、日本陣営の助っ人として日本プロレスにも度々参戦。現役引退後はNWAフロリダ地区のブッカーおよびプロモーターを務めた。

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7.グレート・ヤマト

本名:Toyoki Uyeda

生年月日は不明 - 1960年12月11日

1950年代にアメリカで活躍した日系人で上田トヨキが本名だとする説もある。日本のゴージャス・ジョージと呼ばれ、豪華な衣装をまとい、白人女性の妻(ハナコさんと名乗った)を従えてリングに登場した。ヒールながらいろ男ぶりに女性ファンが多かった。しかし1960年にあまりのもてっぷりに嫉妬した妻に射殺されるという悲惨な最期を迎えた。

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オーヤマ・カトーとグレート・ヤマトについては、SPAの斎藤文彦氏の記事が詳しい。

nikkan-spa.jp

「”トーゴー・スタイル”は、腕と度胸で稼ぎまくったと評されているようなのどかなものではなく、祖国日本、日本軍の真珠湾奇襲攻撃、親たちの皇国崇拝、アメリカ人の白眼視・スパイ視、二世部隊の特攻精神、そして嘘と本当のつなぎ目の判然としない日系アメリカ人という立場・・・それらのあらゆる断片がかき回されて咲いた毒の花」

この本に紹介されている七人のレスラーの他、多くの日系人・日本人がプロレスにおいて活躍してきました。エンターテイメントであるが故に、時代のニーズや社会的背景によって日本人や日系人の役割(ギミック)は変遷してきていますが、かつて第二次大戦後しばらくの間は、このトーゴー・スタイルが最も嫌われた(支持された)悪役キャラクターだったということは記憶しておきたい事実です。

 

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宮内悠介氏『半地下』アイデンティティ、言語や人種、性や生のあいまいな感覚、プロレスをモチーフに

宮内悠介氏の「半地下」を読みました。宮内氏の処女作に手を加えたものを「カブールの園」とともに収録。

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主人公は日本人の姉弟。事業で失敗した父にニューヨークまで連れてこられ、そのまま置き去りにされた姉ミヤコと弟ユーヤの物語。現実と虚構、生と死、言語、人種など、境目があいまいな「半地下」のような場所で生きていく。

個人的な関心事項で整理すると:

1.アメリカンプロレス

姉のミヤコはプロレスラーとして稼ぐ。米国の人気プロレス団体であるWWEをモチーフに、CEOのビンス・マクマホンやアンダーテイカーなどを想像させるキャラクターも登場する。WWEはマクマホン・ファミリーをストーリー(アングル)に取り込むなど、エンターテイメント路線でブームを起こした団体。(ちなみに、トランプ大統領も登場したこともあり、またマクマホン・ファミリーの母親であるリンダはトランプ政権で中小企業庁長官に就任している。)暴力、色気、不貞、流血、犯罪、下品さなど、様々な悪徳がストーリー(アングル)やレスラーのギミックに使われており、それ故に非難されることもあるが、それも含めてストーリーに取り込んでしまう強さがある。

ミヤコは試合中の事故で死んでしまうが、その死もショーの中で消費される。「これが大がかりな現実逃避なのか、それとも現実に対するカウンターなのかはわからない。現実程度、ひっくるめて虚構に取り込んでやる。そう宣言するエディの声が聞こえてくるようであった。」「現実をまるごと虚構に取り込んでしまえーそのエディの妄執の最たるものが、そして彼なりの最高の弔いが、姉の葬儀の場面だった。」

 

2.アメリカにおけるアイデンティティ

恋人のシャーマンから「ミヨコ」と発言される「ミヤコ」。彼女は間違って発音される「ミヨコ」という名前を気に入っていた。それは「彼女がアメリカで手に入れた新たなアイデンティティであり、人種開放を唱える団体から祖国での発言に合わせるべきという押しつけの批判は、むしろ彼女自身を傷つける。アメリカ人が呼びやすい発音・イントネーションの名前を得ることでアメリカ社会に居場所を見つけるという感覚は理解できるように思います。「私は、自分が自分でなくなりたいとは思わない。」怖いもの知らずの難民の少女というアノニマスではなく、アメリカ人で認められた証として。

 

3.日本語と英語

ユーヤはアメリカに連れていかれたことで、ある日突然英語の世界に投げ込まれた。成長していく過程で、頭の中で英語と日本語が両立せず「英語が自分の中の日本語を追いつめ、日本語が自分の中の英語を追い詰める」感覚に悩む。死の間際で姉が語ったメッセージについてユーヤは「英語の日本語のまじりあった姉の混乱は、エロスを感じさせもした。それは意識レベルを下げての観念や音の記憶の連鎖でしかない。まったくのノイズだ。・・・二重写しの世界のように、英語と日本語の意識が同時に立ち現れる。『ニルヴァーナ』」ニルヴァーナ」とは仏教用語の「涅槃の境地」であり、煩悩の火を吹き消した状態を指す。

 

外国における少年時代の葛藤、心の傷、友情や秘密など、はっきりではなく、とてもあいまいな感覚ではありますが、ぼんやりと切なく心に響く作品。特に姉のミヤコがユーヤに最後に伝えたフレーズが心に残りました。

裕也。I'm still here. ありがとう。

 

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日系カナダ人少年野球チーム「バンクーバー新朝日軍 」が二年ぶりに来日

日系カナダ人少年野球チームの「バンクーバー朝日軍 (Asahi Baseball Asociation)」が二年ぶりに来日し、日本各国で親善試合を行っています。

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www.sankei.com

sportsbull.jp

バンクーバー朝日軍」は1914年に日系移民二世の若者を中心に結成された野球チーム。白人チームと互角に戦い、過酷な労働や差別にあえぐ現地の日本人社会を勇気づけたと言われています。しかし、太平洋戦争が始まった1941年、選手達が戦時捕虜収容所や強制疎開地などに送られ解散しました。

その後、当時の活躍が再評価され2003年にカナダの野球殿堂入りを果たし、書籍化やそれを原作とした漫画化もされています。そして、2014年に妻夫木聡亀梨和也らが出演した映画『バンクーバーの朝日』映画化され、日本でも注目されました。

バンクーバー朝日軍 (Asahi Baseball Asociation)」はこの映画化を機に再結成されたもので、2015年にも来日しています。今回は、奈良、京都、愛知、神奈川で試合を行い、3月26日に帰国する予定とのこと。

3月25日には、横浜スタジアムで地元のチームと親善試合を行います。ちなみに、バンクーバー市と横浜市姉妹都市

東京オリンピックパラリンピックに向けて、スポーツでの日系社会と日本との交流も活性化することを期待します。


予告編映画『バンクーバーの朝日』

 

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『カブールの園』、マイノリティとしての日系人のアイデンティティ

宮内悠介の『カブールの園』を読みました。

子供の頃に受けた人種差別がトラウマとなっている日系三世のレイが主人公。かつて日系人が強制的に入れられたマンサナー収容所を訪問したのを機に、戦中・戦後の日系人の過酷な生活を知り、アメリカへの同化とそれにより歴史や言葉が消えていくことの苦悩を理解するプロセスの中で、母親との確執を乗り越え、日系人としての自分のアイデンティティを承認していく。今、まさに世界中が注目しているアメリカの移民問題にも関連する難しいテーマを扱った力作。ただ、ファイナル部分の解釈は少し悩みました。「ありうべき最良の精神」については読者に問いかけているのかもしれませんが、残念ながら、私自身はそれをはっきりととらえることができませんでした。

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物語の中には、米国日系人を伝える仕掛けやキーワードがいくつか出てきます。

1.映画「ベストキッド」のミヤギ

ノリユキ・パット・モリタが演じた空手の先生。モリタ氏は第二次大戦中、アリゾナのヒラリバー収容所で暮らした経験があります。この物語の中では、モリタ氏演じるミヤギ先生の演技を使って級友からイジメを受けるシーンが出てきます。

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2.マンザナー強制収容所

第二次世界大戦中に日系アメリカ人が収容された収容所のひとつ。日系アメリカ人が収容された10箇所の収容所の中で最も有名な場所。シエラネネバダ山脈の麓、モハベ砂漠やデスバレーの近くの過酷な自然環境にある。最大時には10,046名、総数では11,070名が収容されていた。収容所跡地は、現在では博物館等として当時の様子を知るための展示物や復元された建物などを見ることができます。

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Manzanar National Historic Site (U.S. National Park Service)

 

3.日系人の文芸誌「南加文藝」

「ディスカバーニッケイ」に詳しくまとめられている投稿があります。一部を紹介すると:

『南加文藝』はアメリカでもっとも長続きした日本語による文芸同人誌である。第二次大戦中、ヒラリヴァー強制収容所の『若人』に始まった帰米二世の文芸活動は、トゥーリレイク隔離収容所の『怒濤』、『鉄柵』を経て、戦後はニューヨークで『NY文藝』およびロサンゼルスで『南加文藝』となった。『南加文藝』は『NY文藝』が終わったあとも続き、1986年の『南加文芸特別号』の出版で20年の歴史に幕を下ろした。『南加文藝』は戦争の中で芽ぶいた帰米二世文学が木となって咲かせた花ともいうべきものである。

www.discovernikkei.org

 

4.野本一平の文学評論「伝承のない文芸」

これについても情報が多くないので、「ディスカバーニッケイ」の記事の一部を紹介させていただきます。

 野本一平は本名乗元恵三、1932年岩手県に生まれた。龍谷大学文学部を卒業後、東京で教師をした後、1962年に渡米。西本願寺の開教使として長年フレズノ別院の輪番をつとめ、のちに『北米毎日新聞』社社長となった。野本は多彩な人で、僧職のかたわら日系新聞のコラムにエッセイを書いている。『南加文藝』の同人になった当初は小説を書いており、「蓋棺の記」(第5号)、「白い舟」(第8号)、以下「回帰」(第12号)までの6篇の小説が収められている。しかし野本をもっとも有名にしたのは、文学評論「伝承のない文芸」(第18号)であろう。アメリカにおいて日本語で創作することには、それを子孫に読んでもらえないという寂しさがつきまとう。日系日本語文学は「伝承のない文芸」であるという野本のこの文学論は、日系文学を論じるときにいつも引用される重要な一節になった。彼は意見の相違からか、これを最後に同人を去った

 

5.『鉄柵」加川文一          

『鉄柵』はツールレーク収容所で加川文一のもとに集まった山城正雄などの若者が作った雑誌。収容所に張り巡らされた鉄条網の柵から名づけられた。

『鉄柵」加川文一 

柵をいづる日は
たぢろがざる汝のうちにあり
その日きたるまで
空虚なることばを吐きて
また己を吐きすつることなかれ
戦ひは大いにしてかぎりなければ
かぎりなきたたかひのうちに
汝の敵を見失ふことなかれ
汝をも失ふことなかれ

 

『鉄柵(二)』 加川文一         

たれにゆだねんゆめにしあらず
ひと日ひと日をおのれのものとはせよ
生くる日のあかしを身もて彫り
しばしもまたうまざる
そのいとなみのなかに
まことのおのれはあり
道をあやまたざりし日のこころを
いま再びあたためよ
おのれの胸にいれよ

 

6.最後に

「~外部からとやかくいうことは簡単だ。でも一つ確実にいえることがある。マイノリティがどう生きるかは、当の本人が決めることだ。」『カブールの園』より

 

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「在米日系人リーダー招へいプログラム」でアイリーン・ヒラノ・イノウエ米日カウンシル会長と11名の日系人が来日

外務省が、米日カウンシルと連携しつつ、毎年実施している「在米日系人リーダー招へいプログラム」を通じて、アイリーン・ヒラノ・イノウエ米日カウンシル会長及び在米日系人リーダー11名が、3月3日~11日の日程で来日しました。本プログラム実施の背景や今年度のプログラム概要についてまとめます。

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1.在米日系人リーダー招へいプログラムとは

「在米日系人リーダー招へいプログラム/在米日系人リーダー(JALD)訪日プログラム」は、全米各地から選出された日系アメリカ人リーダーが訪日し、日本の実業界、政府、学術界、非営利や文化セクターのリーダーと交流するプログラム。2000年から開始され、外務省が主催し、米日カウンシルがプログラムの計画と運営を行っている。

2.米日カウンシルとは

日米関係の強化に貢献すべく、2008年に設立された教育的非営利団体太平洋両岸の多様なリーダーを結集し、ステークホルダーとの交流の場を提供すると共に、コミュニティと政財界にとって有益な課題に取り組む。国際的なネットワークを育み、様々な組織や団体の協力のもとプログラムを展開し、メンバーが日米の当該パートナーと触れ合う場を設けている。本部はワシントンDC、カリフォルニア、ハワイと東京にスタッフを配置。会長はアイリーン・ヒラノ・イノウエ氏。

2012年には、TOMODACHIイニシアチブを支援するため、米日カウンシル-ジャパンを設立。

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米日カウンシルの役割:日米関係強化に向けた多様性とリーダーシップ | nippon.com

3.TOMODACHIイニシアチブとは

2011年3月11日の東日本大震災の発生を受け、米軍と自衛隊は「トモダチ作戦」を通じて東北地方への緊急人道救援活動で協力し、成功を収めた。この時の協力と友情の精神を基盤に、米国と日本が開始したイニシアチブ。TOMODACHIは公益財団法人 米日カウンシルと東京米国大使館が主導し、日本政府および日米の企業、団体、個人から支援を受けて、①短期留学体験などを行う教育プログラム、②お互いのスポーツ、音楽、芸術などを学びあう文化交流プログラム、③次世代を担う若きリーダーたちが世界に貢献するために必要なスキルと専門知識を習得するリーダープログラムなどの活動を実施している。

usjapantomodachi.org

4.アイリーン・ヒラノ・イノウエ氏

 米日カウンシル会長。1948年に福岡出身の二世の父と、日本人の母の間に生まれた日系三世。1988年から2009年にわたって、全米日系人博物館の初代館長を務める。2008年、故ダニエル・イノウエ上院議員と結婚。また同年に米日カウンシルを設立。東日本大震災後、継続的な復興支援が必要と強く感じ、次世代を担う日本とアメリカの若者たちの育成と交流を促進する「TOMODACHIイニシアチブ」を在東京米国大使館とともに立ち上げた。米日の交流に長年にわたり貢献したことで、2012年度国際交流基金賞を受賞。

戦後70年・日系アメリカ人インタビュー/アイリーン ・ヒラノ・イノウエさん | 日系アメリカ人の歴史 | 現地情報誌ライトハウス

5.2017年「在米日系人リーダー招へいプログラム」

(1) 参加者(11名)

DAVID BOONE (Alexandria, VA) ,President, CB&I Federal Services

JASON FUJIMOTO (Hilo, HI), President & COO, HPM Building Supply

SAWAKO GARDNER (Portsmouth, NH), Judge, 10th Circuit Court, Portsmouth District Court, State of New Hampshire

ROY HIRABAYASHI (San Jose, CA), Co-Founder and past Executive Director, San Jose Taiko

LESLIE A. ITO (Los Angeles, CA), President & CEO, Japanese American Cultural & Community Center

LYNN NAKAMOTO (Salem, OR), Associate Justice, Oregon Supreme Court

PATRICK OISHI (Seattle, WA), Judge, King County Superior Court

KEN RUSSELL (Miami, FL), Commissioner, City of Miami

MICHAEL TAKADA (Chicago, IL), Chief Executive Officer, Japanese American Service Committee

WENDY TAKAHISA (New York, NY), Executive Director, Office of Community Relations, Morgan Stanley

GARY YAMASHITA (Denver, CO), Chief Executive Officer, Sakura Square

(2) 安倍総理表敬

安倍総理大臣から,在米日系人を代表する方々の訪日を歓迎した上で,日系人の方々は各地においてその勤勉さ,誠実さ,思いやりなどで大変な尊敬を得ており,改めて敬意を表したい,かつて敵として熾烈に戦った日本と米国は,和解の力により,強い絆で結ばれた同盟国となり,様々な課題に共に取り組む希望の同盟となった,かくも強固な同盟国となったのも日系人の方々の貢献が大きい,今後も日米の架け橋となられることをお願いしたい旨述べました。

在米日系人リーダー一行による安倍総理大臣表敬 | 外務省

www.kantei.go.jp

 

(2) 日系アメリカ人リーダーシップシンポジウム @金沢
文化で読み解くコミュニティ~日系アメリカ人の視点から

金沢市の取り組みと米国でコミュニティ振興の分野で活躍するパネリストの取り組みを比較しながら、コミュニティ振興において文化が果たす役割について、日系アメリカ人の視点を踏まえ、読み解く。

国際交流基金 - 開催案内 日系アメリカ人リーダーシップシンポジウム 文化で読み解くコミュニティ~日系アメリカ人の視点から

 

 (3) TOMODACHIイニシアチブ:レセプション・ラウンドテーブル

TOMODACHI誕生のきっかけとなった東北の復興支援を継続し、次世代のリーダーシップ育成を強化していく旨を発表。

TOMODACHIイニシアチブがレセプション、ラウンドテーブルを開催 官民パートナーシップを通して、継続した東北支援と日米の次世代育成を目指す | TOMODACHI

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「中南米日系社会との連携に関する有識者懇談会」の第一回会合が開催されました。

中南米日系社会との連携に関する有識者懇談会」が、岸田外務大臣の下に設置され、第一回会合が3月6日に開催されました。結果は以下の外務省のサイトで報告されています。

中南米日系社会との連携に関する有識者懇談会第1回会合(結果) | 外務省

その情報を簡単にまとめてみました。

1.設置の目的

  中南米地域の日系人との連携推進

2.懇談会委員の方々

  堀坂浩太郎 上智大学名誉教授(座長)

  山田啓二 海外日系人協会会長,全国知事会会長(京都府知事)

  飯島彰己 三井物産会長・日本経済団体連合会副会長

  北岡伸一 独立行政法人国際協力機構理事長

  浅香幸枝 南山大学総合政策学部准教授

  ウラノ・エジソン・ヨシアキ 筑波大学人文社会系准教授
3.スケジュールと議題

 第一回会合:3月6日(月)
  ・各界の取組・懇談会への期待

 第二回会合:3月27日(月)
  ・テーマ別議論(「中南米日系社会の現状と世代交代」を踏まえた連携のあり方)
   i. 日系団体の現状と日本との交流
   ii. 日系社会新世代の意識

 第三回会合:4月12日(水)
  ・テーマ別議論(「日系社会の活動の裾野の拡がり」を踏まえた連携のあり方)
   i. 非日系人の参画/非日系人への訴求
   ii. 様々なネットワークの拡がり

 第四回会合:5月9日(火)
  ・補論
   i. 日系社会人材の活用,在日日系社会
  ・報告書とりまとめ「中南米日系社会との連携に関する有識者懇談会」

4.第一回会議の概要

(1)岸田外務大臣の挨拶(代読)

(2)薗浦外務副大臣の挨拶

(3)堀坂座長の説明: 日本にルーツを持つ日系人は日本にとって重要なパートナ-であり,連携の施策を考える上で世代交代が進み,新たな動きが見られる今が重要な時期である旨を指摘の上,この懇談会の議題が採択された。

(4)各有識者及び出席者による意見交換

5.日本と日系社会連携の座標軸

岸田外務大臣は挨拶の中で、以下の通り説明されています。

安倍総理は,2014年の中南米訪問の際,
日系人が現地で築いた信頼こそ中南米地域の日本に対する信頼の基礎である。
中南米の未来を担う若いリーダー達との絆を強化する。
日系人が誇りを持てる日本を作るよう努力し,日本と日系社会の絆を深くする。
という3点を明確にされ,この考えが日本と日系社会の連携の座標軸となっている。

6.安倍総理中南米政策スピーチ

安倍総理は2014年にブラジルを訪問された際に、中南米政策スピーチを行っています。その中で日系社会にも触れられています。

Juntos!! 日本・中南米協力に限りない深化を
中南米外交・三つの指導理念

安倍総理の中南米政策スピーチ | 外務省

 


中南米日系人との交流平成28年11月21日