日系 Nikkey パートナーズ

日系人、ボランティア、開発について、自分の勉強のためにも書いていきます。

国際移住機関(IOM)スウィング事務局長の来日、移民は「パーフェクトストーム」のただ中

国際移住機関(IOM)のスウィング事務局長が2月末から3月初めにかけて来日し、ワークショップ参加、日本政府や政治家との面談、記者会見等を行いました。その報道、IOMの概要、移民の定義等について主にIOMの情報からまとめました。

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 1.日本記者クラブでの会見

2017年3月2日に行われた日本記者クラブについて、各紙で報道されていますが、二村 伸NHK解説委員による会見レポートからの抜粋と、公開された会見の映像(日本記者クラブチャンネル)が掲載されていました。

www.jiji.com

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パーフェクト・ストームを抜け出るための課題」

世界の移民は約10億人。インドネシアの人口より多く、世界6番目の国に相当する。人類が直面する喫緊の問題だが、状況は悪化し続け、パーフェクト・ストーム』(複数の厄災が同時に起こる破滅的状況)の真っただ中にあるとスウィング事務局長は警告した。中東やアフリカで紛争や災害が相次ぎながら解決に向けた取り組みが遅れ、欧米では移民や難民をはじめ外国人に対する嫌悪感が強まり、政府も排他的な動きを抑えられない。そうした状況を懸念した発言である。

米国生まれの82歳。ベテラン外交官である。国際移住機関(IOM)トップとして9年間、貧困や差別から逃れ新天地を目指す声なき人々のために世界を飛び回る精力的な活動の源泉は、ナイジェリアやコンゴ民主共和国などアフリカ各国で大使を歴任、アフリカ最後の植民地と言われる西サハラ国連PKOの団長を務め、過酷な現実を自らの目で見つめ、肌で感じとった体験にあるのだろう。

では『パーフェクト・ストーム』からどうやって抜け出すのか。スウィング事務局長は、克服すべき4つの課題を挙げた。1つは「災害や紛争など人道危機と気候変動への対応」。2つ目は「人口動態の変化への対処」。人口が減少し労働力が不足する先進国に若年層が増え続ける途上国から移住を進めること。3つ目に「多様性のある社会形成のための広報・啓蒙活動」。4つ目が「幅広い議論」だという。移民や難民に関する議論が負の側面から捉えられているとして、移住が歴史的にもプラスの影響をもたらしてきた事実に基づいた議論を訴え、メディアの責任にも言及した。


ウィリアム・レイシー・スウィング 国際移住機関(IOM)事務局長 2017.3.2

 

2.国際移住機関(IOM)とは

国際移住機関(IOM)は、世界的な人の移動(移住)の問題を専門に扱う唯一の国連機関。その前身は、1951年に主として欧州からラテンアメリカ諸国への移住を支援するため、国連システム外に設立された欧州移住政府間委員会(ICEM)。ICEMは、その活動範囲を当初の欧州・ラテンアメリカから徐々に世界各国へと拡大し、1980年には移住政府間委員会(ICM)へと名称が変更され、更に1989年11月の憲章改正を経て国際移住機関(IOM)になった。2016年9月19日、多くの難民・移民が国境を越えて移動せざるを得ない危機的状況を背景に、国際社会の今後の対応を議論した「難民と移民に関する国連サミット」が国連本部で開催された際に、国連に加入。

組織概要(2016年11月現在 )

加盟国: 165カ国。日本は1993年に加盟
代表: ウィリアム・レイシー・スウィング(事務局長)
本部: スイス ジュネーブ
職員数: 9,000人以上(うち邦人専門職員は 21 人)
活動内容: ①移住と開発分野(専門家交流,移民や帰国者への小規模融資等)
②移住の促進(家族呼び寄せ,渡航手続,語学研修,文化紹介等)
③移住の管理行政(人身取引対策,出入国管理,不法入国対策等)
④非自発的移住(難民・国内避難民支援,帰還・再定住支援,
緊急人道援助,復興支援,除隊兵士の社会復帰,選挙と国民投票等)

 

3.ウィリアム・レイシー・スウィング事務局長(Ambassador William Lacy Swing, Director General)

1934年9月11日生まれ、米国ノースカロライナ出身の外交官。アフリカにおいて、米国大使及び国連での長いキャリアを持つ。

大使としての経歴
コンゴ民共和国大使 (1979–81)
リベリア (1981–85)
南アフリカ (1989–92)
・ナイジェリア(1992–93)
・ハイチ(1993–98)
コンゴ民主共和国 (1998–2001)
国連における経歴
国際連合西サハラ住民投票ミッション(MINURSO)団長(2001–2003)
コンゴ民主共和国国連PKO団長(2003-2008)
国際移住機関(IOM)事務局長(2008-)

 

4.「移民」の定義は?

IOMは「移民」を次のとおり定義している:当人の(1) 法的地位、(2) 移動が自発的か非自発的か、(3) 移動の理由、(4) 滞在期間に関わらず、本来の居住地を離れて、国境を越えるか、一国内で移動している、または移動したあらゆる人。

そのうち、IOMでは、移民と人の移動に関連する課題、また、関係国政府の同意に基づいて、国境を越えた人の移動に関するサービスを必要としている移民について、取り組んでいる。

国際(国境を越えた)移民の正式な法的定義はないが、多くの専門家は、移住の理由や法的地位に関係なく、本来の居住国を変更した人々を国際移民とみなすことに同意している。3カ月以上12カ月未満の移動を短期的または一時的移住、1年以上にわたる居住国の変更を長期的または恒久移住と呼んで区別するのが一般的。

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5.IOMの日本での活動

日本におけるIOMの活動は1980年代のインドシナ難民受け入れ支援に始まり、近年では、日本を取り巻く人の移動の変化に対応した多様な取り組みへと拡大している。

人身取引(トラフィッキング)対策(移民の性的搾取や強制労働など深刻な人権侵害に立ち向かう活動)

難民の第三国定住(第三国定住とは難民が一時的な庇護国から、恒久的な定住が可能な第三国へ移動し、社会統合すること)

自主的帰国及び社会復帰支援(帰国手続きや帰国後の就業支援等)

 

6.最後に

スウィング事務局長が『パーフェクト・ストーム』から抜け出すための課題として挙げた4点のうち、日本に最も欠けているのが「幅広い議論」ではないでしょうか。移民の負の側面のみならず、様々なプラスの影響もあることを事実に基づいた議論が必要です。

 

 

 

外国人との「共生を考える」第六部、「異郷でボンジーア」日本のブラジル人学校で学ぶ日系人子弟

毎日新聞滋賀県版の特集「共生を考える」第6部のご紹介。2016年12月に掲載されたものです。今回は、滋賀県にあるブラジル人学校「日本ラチーノ学院」の教師と生徒の話。廃校となった小学校に移転。現在、1歳から高3までの約140人が通っています。授業はブラジルの教科書で行われており、2003年にはブラジル教育省が学校として認可。また日本でも2011年に準学校法人設立の各種学校として認可されたことから、ブラジルと日本の両方で高卒認定試験なしで大学の入学資格を得ることができます。

日系人の親としては、日本の学校になじめない、またいじめの懸念がある、言葉が通じるなどの理由で、このブラジル人学校に通わせているようです。いずれブラジルに帰って進学する可能性も考慮しているのでしょう。しかし、公立小中学校と違って、授業料はどうしても高くなります。朝と昼の給食、送迎付きで月4万数千円とのこと。

補助金としては、県から小中学生数に応じ一人年8万円分の学校運営費補助金が給付されて、国からは高校生に一人年11万8800円の就学支援金が出ているものの、学校の経営も楽ではないとのこと。また、授業料が支払えず、公立小学校に通わざるをえない日系人も多いようです。

2016年12月の高校部卒業生16人は、6人が専門学校へ進学、10人は派遣やアルバイトで働きながら、うち6人はネット授業のある本国の大学で学ぶ予定。残る4人は学費がたまれば帰国し、大学に進学する夢を持っているとのこと。卒業と同時の日本での大学進学は、言葉の壁があって難しいようです。

しかし、記事で紹介されていたマリアナさんは、専門学校への進学後、日本の大学に編入した「希望の星」。彼女のように「派遣で働くだけで終わらない。頑張ればこうなれる」という日系人子弟の新しいキャリアパスを歩んでいる人材も出てきています。頑張ってほしいですね。

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mainichi.jp

ブラジル人学校の今/上 過疎地に通う140人 母国文化を学びたい

ブラジル人学校の今/中 言葉通じる頼みの綱 教室に歓声、課題は経営

ブラジル人学校の今/下 言葉学び日本定住へ 有名大編入、希望の星

 

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クリスチャン・イエリチ(Christian Yelich)、日系三世、首位打者も狙える若き天才打者、WBCでも活躍

WBCでも活躍したフロリダ・マーリンズのクリスチャン・イエリチは、母方の祖父が日本人で、日本人の血が1/4流れる、いわゆる日系三世です。父方はクロアチア移民の家系。彼の血筋として注目されているのは、母方の曾祖父がNFLで殿堂入りを果たしているフレッド・ジャークであること。ちなみに、弟のコリン・イエリッチも2015年にドラフト29巡目でアトランタ・ブレーブスに入団した捕手で、2016年に兄と同じマーリンズマイナー契約をしています。

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 1.イエリチ選手の経歴

 クリスチャン・イエリチ選手は1991年12月5日生まれの25歳。カリフォルニア州出身で、ウェストレイク高等学校時代から野球で活躍。全米の高校野球選手トップ100のなかで34位にランクもされています。高校卒業後はカレッジの野球チームから奨学金を得ていましたが、マーリンズからのドラフト指名を受けプロ入り(高卒の外野手でこの順位での指名というのは相当の評価)。マイナーリーグでも順調に成績を残し、 2011年、2012年シーズンはマーリンズの優秀マイナー選手(Marlins' Minor League Player of the Year)に選ばれています。そして、2013年は弱冠21歳で2Aからメジャーに昇格しています。

生年月日:  1991年12月5日(25歳)
生まれ:  カリフォルニア州ベンチュラ郡サウザンドオークス
身長:  6' 4" =約193 cm
体重:  195 lb =約88.5 kg
投打:  右投左打
出身校:  ウェストレイク高等学校
プロ入り:  2010年のMLBドラフト1巡目(全体23位)

 

2.プロ入り後の活躍

 2013年7月23日のコロラド・ロッキーズ戦で2番・左翼手スタメンでメジャーデビューすると、いきなり4打数2安打。結果、2013年シーズンは62試合に出場して打率.288・4本塁打・16打点・10盗塁という成績を記録。
2014年シーズンは開幕から左翼手のレギュラーに定着し、144試合に出場。打率.284・9本塁打・54打点・21盗塁・出塁率.362という成績を記録。また守備力が高く、ゴールド・グラブ賞を受賞しています。
2015年シーズンは故障もあり126試合の出場に留まったが、規定打席には2年連続で到達。打率.300・7本塁打・44打点・16盗塁という好成績を残しました。
2016年シーズンは更に才能が開花。155試合に出場し、打率.298・21本塁打・98打点・9盗塁・出塁率.376というトップレベルの成績を収めています。この打撃面での活躍ぶりが評価され、シルバースラッガー賞ナ・リーグの外野手部門で受賞しました。

 

3.WBCでは侍ジャパンのメンバーになりえた?

昨年あたりのニュースでは、侍ジャパン入りもあり得るのではないかというニュースも出ていました。米国チームの外野手に選ばれるのは至難の業ということもあり、イエリッチ選手も「もし、出られるなら、もちろん日本チームで出たい」と乗り気との報道(リップサービスかもしれませんが)。ただし、WBCの規定では両親のいづれかが日本国籍または日本生まれである必要があり、厳密には日本代表になる資格はありません。過去の大会では柔軟に対応した例もあることから一部には期待する声も出ていました。

sports.yahoo.co.jp

favsports.net

しかしながら、当然といえば当然ですが、イエリチ選手は2016年シーズン終了後、第4回WBCの米国代表への参加の意思を表明し、選出されました。

m.marlins.mlb.com

そしてWBCでは全ての試合に出場し、外野のレギュラーとして大活躍を見せています。

www.daily.co.jp

 

4.今後の期待

イエリチ選手が子供のころに憧れた選手はデレク・ジーター。その理由は「彼は誰もが認める勝者。選手としても万能だし、チームに貢献しようとする姿勢が素晴らしい」ということ。マーリンズは2015年にイエリチ選手と7年契約延長に合意。総額4,957万ドル(当時のレートで60億円近い額)という大型契約を結んでいます。ジーターのような走攻守3拍子揃った選手として、更なる飛躍を期待しています。

full-count.jp

 

『七人のトーゴー』戦後アメリカで日系人が咲かせた毒の花

村松友視氏の日系人悪役レスラーを題材にした『七人のトーゴー』を読みました。村松氏は直木賞を受賞した『時代屋の女房』などで有名ですが、1980年代、90年代は『私、プロレスの味方です』を始め、プロレスファンのオピニオンリーダーでもありました。この『七人のトーゴー』は1982年に出版されており、プロレスの書籍を積極的に出版していた時代のものです。(表題も含め、計6つの短編集)

七人のトーゴー (文春文庫 (328‐1))

七人のトーゴー (文春文庫 (328‐1))

 

 物語は洋書店で手に入れたアメリカ「レスリング」誌に「七人のトーゴー」という不思議なタイトルの記事を村松氏が見つけたことに始まります(本人が登場するノンフィクション仕立て)。記事によると、「七人とトーゴー」とは、第二次世界大戦後、アメリカに排出した日系人プロレスラー七人の総称。いずれも真珠湾奇襲攻撃にイメージされる「卑怯なジャップ」像を使って、アメリカ人観客の憎悪をかうことで人気と財産を得悪役、ということです。具体的には、グレート東郷、トシ東郷(ハロルド坂田)、ミスター・モト、キンジ・シブヤ、オーヤマ・カトー、デユーク・ケムオカ、グレート・ヤマトの七人

この記事を契機として、私こと村松氏は「七人のトーゴー」のイメージの原点である真珠湾奇襲攻撃の現場を見るためハワイに旅に出ます。そこで日系レスラーの活躍ぶりについて聞き出すため、力道山時代のレフリーとしても有名な沖識名へインタビューしつつ、「七人のトーゴー」などについて思索するという内容です。

この「七人のトーゴー」それぞれについて、他資料から調べてみた内容をまとめます。

 

1.グレート東郷

本名:George Kazuo Okamura

日本名:岡村 一夫(おかむら かずお)

1911年10月11日 - 1973年12月17日

オレゴン州フートリバー出身

終戦直後にまだまだ残っていた反日感情を利用してヒールとして活躍。当初のリングネームは「軍国主義の頭目」と見られていた東條英機の苗字にあやかった「グレート・トージョー」。しかし「東條」の名字をそのまま使うのはあまりにもアメリカ人を刺激しするとの判断から、同じく著名な軍人である東郷平八郎にあやかって「グレート東郷」に変更したと言われる。窮地に陥ったときの卑屈な懇願のあとの「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」などの反則技を売り物とした。卑屈に許しを乞うた後のいきなりの反則は、当時のアメリカ人の観客に「日本軍のだまし討ち」とされていた真珠湾攻撃を連想させ、大いに怒りをかった。このトーゴーのスタイル(卑劣かつ姑息な反則技や薄ら笑い、東洋風のコスチューム、塩をまく「儀式」など)はその後しばらくの間アメリカにおける日本人および日系アメリカ人ヒールレスラーの雛形となり、他の日系人レスラーに受け継がれている。ちなみに、日本のリングでは、頭突き攻撃や空手チョップなどの技を使い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した。

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2.トシ東郷(ハロルド坂田)

本名:Harold "Toshiyuki" Sakata

日本名:坂田敏行(さかた としゆき)

1920年7月1日 - 1982年7月29日

ハワイ州ホノルル出身

プロレス入りする以前にはロンドンオリンピックの重量挙げ(ライトヘビー級)ではアメリカ代表として銀メダルを獲得。プロレスでは反日感情を利用したヒール(悪役)として活躍。またグレート東郷の弟、トシ東郷を名乗り、タッグチーム「トーゴー・ブラザーズ」としても活動。1964年には映画『007 ゴールドフィンガー』でツバに刃物を仕込んだ山高帽を投擲する用心棒のオッドジョブ(Oddjob)を演じ有名となった。

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3.ミスター・モト

本名:Masaru "Charlie" Iwamoto

日本名:岩本勝(いわもと まさる)

1915年8月11日 - 1991年7月6日

ハワイ州ホノルル出身

リングネームは1930年代にヒットした日本人探偵を主人公にしたコミック「ミスター・モト」から取ったもの。ハワイ相撲の横綱を経てプロレス入りし、キンジ渋谷とのタッグで様々なタイトルを取り、またミスター・サトー大木金太郎)とのコンビでWWA世界タッグ選手権を獲得するなど活躍した。

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ちなみに、このリングネームの由来となる日本人探偵「ミスター・モト」は以下に詳しい。

matome.naver.jp


4.キンジ・シブヤ

本名:Robert "Kinji" Shibuya

日本名:渋谷 金持(しぶや きんじ)

1921年5月16日 - 2010年5月3日

ユタ州出身(ロスアンジェルス育ち)

グレート東郷の影響下にある日系ヒールとして、現役選手時代は地元のロサンゼルスやサンフランシスコなどアメリカ西海岸を主戦場に活動。マサ斎藤をはじめ、海外武者修行に出ていた日本人選手を公私に渡ってサポートし、彼らのメンターとなったことから「神風親分」の異名を持つ。

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5.オーヤマ・カトー

本名:Shinichi "Stanley" Mayeshiro

1919年1月7日 - 1961年1月9日

ハワイ出身または沖縄出身のハワイ移民

マネージャーのミスター・スギを引き連れてリングに登場。小柄ながらもテクニシャンだったといわれる。オハイオを中心に活躍し、オハイオ・タッグをタロー・サクローとのコンビで獲得している。活動期間は短く、1961年にテキサス州ヒューストン(カナダのバンクーバー説もあり)でジョー・ゴードンとの試合中に心臓部にドロップキックを受けてショック死するという悲惨な最期を遂げた。

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6.デユーク・ケムオカ

本名:Martin Hisao Tanaka

日本名:田中久雄(たなか ひさお)

1921年4月22日 - 1991年6月30日

カリフォルニア州サクラメント出身

テキサスやフロリダなどのアメリカ南部を主戦場に、同時代の日系レスラーと同じく戦後の反日感情を利用したヒールとして悪名を馳せたが、キャリア後半はベビーフェイスのポジションでも活躍した。アントニオ猪木グレート草津など海外修行時代の日本人選手のタッグパートナー兼メンターも担い、日本陣営の助っ人として日本プロレスにも度々参戦。現役引退後はNWAフロリダ地区のブッカーおよびプロモーターを務めた。

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7.グレート・ヤマト

本名:Toyoki Uyeda

生年月日は不明 - 1960年12月11日

1950年代にアメリカで活躍した日系人で上田トヨキが本名だとする説もある。日本のゴージャス・ジョージと呼ばれ、豪華な衣装をまとい、白人女性の妻(ハナコさんと名乗った)を従えてリングに登場した。ヒールながらいろ男ぶりに女性ファンが多かった。しかし1960年にあまりのもてっぷりに嫉妬した妻に射殺されるという悲惨な最期を迎えた。

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オーヤマ・カトーとグレート・ヤマトについては、SPAの斎藤文彦氏の記事が詳しい。

nikkan-spa.jp

「”トーゴー・スタイル”は、腕と度胸で稼ぎまくったと評されているようなのどかなものではなく、祖国日本、日本軍の真珠湾奇襲攻撃、親たちの皇国崇拝、アメリカ人の白眼視・スパイ視、二世部隊の特攻精神、そして嘘と本当のつなぎ目の判然としない日系アメリカ人という立場・・・それらのあらゆる断片がかき回されて咲いた毒の花」

この本に紹介されている七人のレスラーの他、多くの日系人・日本人がプロレスにおいて活躍してきました。エンターテイメントであるが故に、時代のニーズや社会的背景によって日本人や日系人の役割(ギミック)は変遷してきていますが、かつて第二次大戦後しばらくの間は、このトーゴー・スタイルが最も嫌われた(支持された)悪役キャラクターだったということは記憶しておきたい事実です。

 

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宮内悠介氏『半地下』アイデンティティ、言語や人種、性や生のあいまいな感覚、プロレスをモチーフに

宮内悠介氏の「半地下」を読みました。宮内氏の処女作に手を加えたものを「カブールの園」とともに収録。

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主人公は日本人の姉弟。事業で失敗した父にニューヨークまで連れてこられ、そのまま置き去りにされた姉ミヤコと弟ユーヤの物語。現実と虚構、生と死、言語、人種など、境目があいまいな「半地下」のような場所で生きていく。

個人的な関心事項で整理すると:

1.アメリカンプロレス

姉のミヤコはプロレスラーとして稼ぐ。米国の人気プロレス団体であるWWEをモチーフに、CEOのビンス・マクマホンやアンダーテイカーなどを想像させるキャラクターも登場する。WWEはマクマホン・ファミリーをストーリー(アングル)に取り込むなど、エンターテイメント路線でブームを起こした団体。(ちなみに、トランプ大統領も登場したこともあり、またマクマホン・ファミリーの母親であるリンダはトランプ政権で中小企業庁長官に就任している。)暴力、色気、不貞、流血、犯罪、下品さなど、様々な悪徳がストーリー(アングル)やレスラーのギミックに使われており、それ故に非難されることもあるが、それも含めてストーリーに取り込んでしまう強さがある。

ミヤコは試合中の事故で死んでしまうが、その死もショーの中で消費される。「これが大がかりな現実逃避なのか、それとも現実に対するカウンターなのかはわからない。現実程度、ひっくるめて虚構に取り込んでやる。そう宣言するエディの声が聞こえてくるようであった。」「現実をまるごと虚構に取り込んでしまえーそのエディの妄執の最たるものが、そして彼なりの最高の弔いが、姉の葬儀の場面だった。」

 

2.アメリカにおけるアイデンティティ

恋人のシャーマンから「ミヨコ」と発言される「ミヤコ」。彼女は間違って発音される「ミヨコ」という名前を気に入っていた。それは「彼女がアメリカで手に入れた新たなアイデンティティであり、人種開放を唱える団体から祖国での発言に合わせるべきという押しつけの批判は、むしろ彼女自身を傷つける。アメリカ人が呼びやすい発音・イントネーションの名前を得ることでアメリカ社会に居場所を見つけるという感覚は理解できるように思います。「私は、自分が自分でなくなりたいとは思わない。」怖いもの知らずの難民の少女というアノニマスではなく、アメリカ人で認められた証として。

 

3.日本語と英語

ユーヤはアメリカに連れていかれたことで、ある日突然英語の世界に投げ込まれた。成長していく過程で、頭の中で英語と日本語が両立せず「英語が自分の中の日本語を追いつめ、日本語が自分の中の英語を追い詰める」感覚に悩む。死の間際で姉が語ったメッセージについてユーヤは「英語の日本語のまじりあった姉の混乱は、エロスを感じさせもした。それは意識レベルを下げての観念や音の記憶の連鎖でしかない。まったくのノイズだ。・・・二重写しの世界のように、英語と日本語の意識が同時に立ち現れる。『ニルヴァーナ』」ニルヴァーナ」とは仏教用語の「涅槃の境地」であり、煩悩の火を吹き消した状態を指す。

 

外国における少年時代の葛藤、心の傷、友情や秘密など、はっきりではなく、とてもあいまいな感覚ではありますが、ぼんやりと切なく心に響く作品。特に姉のミヤコがユーヤに最後に伝えたフレーズが心に残りました。

裕也。I'm still here. ありがとう。

 

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日系カナダ人少年野球チーム「バンクーバー新朝日軍 」が二年ぶりに来日

日系カナダ人少年野球チームの「バンクーバー朝日軍 (Asahi Baseball Asociation)」が二年ぶりに来日し、日本各国で親善試合を行っています。

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www.sankei.com

sportsbull.jp

バンクーバー朝日軍」は1914年に日系移民二世の若者を中心に結成された野球チーム。白人チームと互角に戦い、過酷な労働や差別にあえぐ現地の日本人社会を勇気づけたと言われています。しかし、太平洋戦争が始まった1941年、選手達が戦時捕虜収容所や強制疎開地などに送られ解散しました。

その後、当時の活躍が再評価され2003年にカナダの野球殿堂入りを果たし、書籍化やそれを原作とした漫画化もされています。そして、2014年に妻夫木聡亀梨和也らが出演した映画『バンクーバーの朝日』映画化され、日本でも注目されました。

バンクーバー朝日軍 (Asahi Baseball Asociation)」はこの映画化を機に再結成されたもので、2015年にも来日しています。今回は、奈良、京都、愛知、神奈川で試合を行い、3月26日に帰国する予定とのこと。

3月25日には、横浜スタジアムで地元のチームと親善試合を行います。ちなみに、バンクーバー市と横浜市姉妹都市

東京オリンピックパラリンピックに向けて、スポーツでの日系社会と日本との交流も活性化することを期待します。


予告編映画『バンクーバーの朝日』

 

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『カブールの園』、マイノリティとしての日系人のアイデンティティ

宮内悠介の『カブールの園』を読みました。

子供の頃に受けた人種差別がトラウマとなっている日系三世のレイが主人公。かつて日系人が強制的に入れられたマンサナー収容所を訪問したのを機に、戦中・戦後の日系人の過酷な生活を知り、アメリカへの同化とそれにより歴史や言葉が消えていくことの苦悩を理解するプロセスの中で、母親との確執を乗り越え、日系人としての自分のアイデンティティを承認していく。今、まさに世界中が注目しているアメリカの移民問題にも関連する難しいテーマを扱った力作。ただ、ファイナル部分の解釈は少し悩みました。「ありうべき最良の精神」については読者に問いかけているのかもしれませんが、残念ながら、私自身はそれをはっきりととらえることができませんでした。

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物語の中には、米国日系人を伝える仕掛けやキーワードがいくつか出てきます。

1.映画「ベストキッド」のミヤギ

ノリユキ・パット・モリタが演じた空手の先生。モリタ氏は第二次大戦中、アリゾナのヒラリバー収容所で暮らした経験があります。この物語の中では、モリタ氏演じるミヤギ先生の演技を使って級友からイジメを受けるシーンが出てきます。

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2.マンザナー強制収容所

第二次世界大戦中に日系アメリカ人が収容された収容所のひとつ。日系アメリカ人が収容された10箇所の収容所の中で最も有名な場所。シエラネネバダ山脈の麓、モハベ砂漠やデスバレーの近くの過酷な自然環境にある。最大時には10,046名、総数では11,070名が収容されていた。収容所跡地は、現在では博物館等として当時の様子を知るための展示物や復元された建物などを見ることができます。

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Manzanar National Historic Site (U.S. National Park Service)

 

3.日系人の文芸誌「南加文藝」

「ディスカバーニッケイ」に詳しくまとめられている投稿があります。一部を紹介すると:

『南加文藝』はアメリカでもっとも長続きした日本語による文芸同人誌である。第二次大戦中、ヒラリヴァー強制収容所の『若人』に始まった帰米二世の文芸活動は、トゥーリレイク隔離収容所の『怒濤』、『鉄柵』を経て、戦後はニューヨークで『NY文藝』およびロサンゼルスで『南加文藝』となった。『南加文藝』は『NY文藝』が終わったあとも続き、1986年の『南加文芸特別号』の出版で20年の歴史に幕を下ろした。『南加文藝』は戦争の中で芽ぶいた帰米二世文学が木となって咲かせた花ともいうべきものである。

www.discovernikkei.org

 

4.野本一平の文学評論「伝承のない文芸」

これについても情報が多くないので、「ディスカバーニッケイ」の記事の一部を紹介させていただきます。

 野本一平は本名乗元恵三、1932年岩手県に生まれた。龍谷大学文学部を卒業後、東京で教師をした後、1962年に渡米。西本願寺の開教使として長年フレズノ別院の輪番をつとめ、のちに『北米毎日新聞』社社長となった。野本は多彩な人で、僧職のかたわら日系新聞のコラムにエッセイを書いている。『南加文藝』の同人になった当初は小説を書いており、「蓋棺の記」(第5号)、「白い舟」(第8号)、以下「回帰」(第12号)までの6篇の小説が収められている。しかし野本をもっとも有名にしたのは、文学評論「伝承のない文芸」(第18号)であろう。アメリカにおいて日本語で創作することには、それを子孫に読んでもらえないという寂しさがつきまとう。日系日本語文学は「伝承のない文芸」であるという野本のこの文学論は、日系文学を論じるときにいつも引用される重要な一節になった。彼は意見の相違からか、これを最後に同人を去った

 

5.『鉄柵」加川文一          

『鉄柵』はツールレーク収容所で加川文一のもとに集まった山城正雄などの若者が作った雑誌。収容所に張り巡らされた鉄条網の柵から名づけられた。

『鉄柵」加川文一 

柵をいづる日は
たぢろがざる汝のうちにあり
その日きたるまで
空虚なることばを吐きて
また己を吐きすつることなかれ
戦ひは大いにしてかぎりなければ
かぎりなきたたかひのうちに
汝の敵を見失ふことなかれ
汝をも失ふことなかれ

 

『鉄柵(二)』 加川文一         

たれにゆだねんゆめにしあらず
ひと日ひと日をおのれのものとはせよ
生くる日のあかしを身もて彫り
しばしもまたうまざる
そのいとなみのなかに
まことのおのれはあり
道をあやまたざりし日のこころを
いま再びあたためよ
おのれの胸にいれよ

 

6.最後に

「~外部からとやかくいうことは簡単だ。でも一つ確実にいえることがある。マイノリティがどう生きるかは、当の本人が決めることだ。」『カブールの園』より

 

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