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日系 Nikkey パートナーズ

日系人、ボランティア、開発について、自分の勉強のためにも書いていきます。

ララ物資、戦後の日本の困窮を救った米国からの支援と日系人。ララの学校給食から70周年。

アメリカ

「ララ物資」という言葉を聞いたことがある方は少ないのではないでしょうか。私の世代ではほぼ知らないと思います。

ララ(LARA)とは、アジア救済公認団体「Licensed Agencies of Relief in Asia」の略称で、戦後、困窮していた日本にアメリカ等から集められた救済物資を送りました。これを「ララ物資」と呼んでいます。

1946(昭和21)年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類など450トンが横浜港に到着。その後1952年までに16,000トン以上の物資が届きました。この支援物資を受け取ったのは約1400万人、当時の日本の総人口の約15%、つまり6人に1人がこの支援物資を受け取った計算になります。

そして、この「ララ物資」を使った学校給食が始まったのが1951年(昭和26年)1月24日。今から70年前にことです。最初のメニューは鮭の缶詰を使ったスープだったそうです。ちなみに、この1月24日は今では「学校給食記念日」となっています。

www.tenki.jp

ララ物資はアメリカからの支援ではあったのですが、この実現にあたっては、日本人「・日系人が大きな役割を担っていました。アメリカの日系人は第二次大戦中には強制収容所に入れられるなど非常につらい状況を強いられ、終戦により収容所から戻ってからは、まさにゼロからスタートして生活を立ち上げていました。そのような中でも母国日本の窮状を知り、日本を救済する運動が起こりました。その中の中心人物の一人がサンフランシスコ在住の日系人の浅野七之助で(盛岡市出身の一世、新聞記者)、ララ設立につながる「日本難民救済会」を1946年1月に発足させています。ララ物資救援活動に貢献した日系団体は、最終的に36団体にのぼるとされ、また一説には救援物資の20%は日系人が集めたものだといわれています。この事実を、当時のアメリカ政府は日本人に伝えていなかったようです。確かにアメリカからの支援ではあったのですが、日系移民からの支援でもあったわけです。

このあたりの情報は、以下の「海外移住資料館だより」が詳しいです。ご参照ください。

 

http://www.jomm.jp/newsletter/pdf/DayoriVol35.pdf

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このララ物資の碑が赤レンガ倉庫の近くに建っています。碑には香淳皇后の御歌が刻まれています。

ララの品 つまれたる見て とつ国の あつき心に 涙こぼしつ

あたたかき とつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ 時はへぬとも

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