日系 Nikkey パートナーズ

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『ボリビア移民の真実』、サンファン入植初期の貴重な回顧録

2009年に出版された『ボリビア移民の真実』を読みました。ボリビアには「オキナワ」と「サンファン」という2つの日系移住地が存在していますが、この本は「サンファン」への入植初期の苦闘を、移住支援機関の農業技術者として勤務した経験をもとに記しています。

ボリビア移民の真実

ボリビア移民の真実

 

筆者は6年以上もの間、サンファンで活動・生活しており、当時の移住地の混乱、移住者たちの苦闘がリアルに描かれています。

 

ボリビアは南米で最も遅く集団移住が計画・実施された国です。1956年に日本とボリビア政府は移住協力協定を締結し、サンファンには1957年6 月に第1 次移住者が到着。しかしながら、移住募集条件であった道路の未整備、不十分な農業調査・移住地適地調査、雨季の長雨や深い森林などの環境条件について移住者への未提供など、計画的な移住とは言えず、その状況で移住を進めた国の責任は大きいと著者は指摘しています。

 

第1 次移住者が到着した1957年は異常な長雨と寒波に襲われるという不運もあり、開拓や営農が進まず、現地からは後続移住者の送り出し中止要請がなされたほど。しかし、日本では労働者の送り出し圧力が強く、既に第2 次移住者の募集が始まっていたため、翌年の第6 次まで移住者が到着。その結果、サンファン移住地はかなりの混乱をきたし、外務省や海協連への抗議のみならず、住民同士の不和まで発生。多くの移住者がアルゼンチンやブラジルに転住、また帰国もされています。

 

移住当時のサンファンを語る際に必ず使われるフレーズに「犬も通わぬサンファンというものがあります。道路も含めた環境の悪さを表現したもので、ブラジル・サンパウロ新聞の記事で大給近達氏(国立民族学博物館名誉教授)の報告を引用しつつ、見出しとして使われたものだそうです。それほど、当時の移住地の中でも、相当、劣悪な状況であったと認識されていたようです。

 

最終的に、サンファンには、第1 次から1992年(平成 4年)の第53次移住まで、302 家族、1,634 名と単身51名の合計1,685 名が移住しました。出身県別に見ると、長崎約46%、福岡9 %、北海道、高知、熊本、東京の順。サンフアン移住地の定着率は20%強ということです。

 

そのサンファン移住地も、2005年には移住50周年、2015年には60周年を迎え、今ではコメ・大豆・小麦・鶏卵などの農産物の生産でボリビア経済に大きく貢献するまでに農業が発展しています。また、移住地へのアクセスや移住地内の道路インフラも整備が進みました。そして、サンファンは市に昇格し、日系二世が初代市長を勤めました。50周年の記事は以下のニッケイ新聞にまとめられています。

www.nikkeyshimbun.jp

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本書や新聞記事に記載されているように、移住当初は、思い描いた営農・生活とはいかず、想像を絶するような苦難があったことは事実です。その厳しい時期を経て、みんなの努力により、今の発展があるのは間違いありません。そして、それを支えたのが、ボリビアへの希望、なのではないでしょうか。「ボリビア開拓の歌」(若槻泰雄氏作詞)にも、移住当初の意気込みが、生き生きと表現されています。

  万里遥かなアマゾンの源

  千古未踏の大密林に

  新たなる希望の灯は輝いて

  眠れる沃野を今ぞ拓かん

  みどりの宝庫よ新天地

  ああボリビアボリビア

  開拓の歌

 

なお、余談ですが、本にも出てくるボリビア生まれの著者の長男は有名なヴァイオリニスト兼指揮者である寺神戸亮氏なんですね。

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