日系 Nikkey パートナーズ

日系人、ボランティア、開発について、自分の勉強のためにも書いていきます。

日系ブラジル人の木須デソウザ・フェリペ選手がオリックスに育成ドラフト4位指名

2017年のプロ野球ドラフトで、今年も日系人が指名されました。

オリックス育成ドラフト4位での指名となった日系ブラジル人の木須デソウザ・フェリペ選手です。おそらく、捕手として入団した日系ブラジル人は初めて。

オリックスが指名で獲得を狙う御殿場西・木須デソウザ・フェリペ

名前:木須デソウザ・フェリペ(Kisu Desouza Felipe)

生年月日:1999年9月4日

出身:静岡県富士市

高校:御殿場西高(静岡県

ポジション:捕手、右投右打

身長・体重:176センチ73キロ

 

木須選手は、両親ともブラジル出身の日系人ですが、本人は日本生まれ日本育ちです。

御殿場西高校では2年秋からレギュラー捕手。甲子園出場はかなわなかったものの、二塁送球タイムが1・8秒、50メートル6秒3という高い身体能力、そして思い切りの良い打撃で注目されました。日本ハムの入団テストも受験していましたが、捕手が不足しているオリックスの指名となりました。

 
素材型としての指名で、球団としてはこれから育成という考えですが、同じ育成出身、かつ比較的小柄な捕手ということで、ソフトバンクの甲斐選手のような捕手になってほしいというのが周囲の期待です。

近年、日系人選手の目立った活躍がないことから、数年後が楽しみですね。

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また、今年のドラフトでは木須デソウザ・フェリペ選手の他、ハーフなど外国にルーツを持つ選手が指名されています。彼らの活躍も期待したいですね。

 

(1) 中日 2位 石川翔 投手(青藍泰斗)フィリピン人とのハーフ
(2) 広島 3位  ケムナブラッド誠 投手日本文理大)アメリカ人とのハーフ
(3) 中日 育成2位  石田健人マルク 投手龍谷大)ベルギー人とのハーフ
(4) ソフトバンク 育成3位  砂川リチャード 内野手沖縄尚学)アメリカ人とのハーフ
(5) オリックス 育成4位  木須デソウザフェリペ 捕手(御殿場西)日系ブラジル人

映画『禅と骨 Zen and Bones』を鑑賞、アイデンティティの混乱だけでは語れない情熱

日系アメリカ人の禅僧を追ったドキュメンタリー映画『禅と骨 Zen and Bones』を見ました。不思議な映画でしたが、主人公のヘンリ・ミトワの波乱万丈、わがまま、自分勝手とも言える生き方をドラマ、アニメも交えて描いた、すばらしい作品でした。ただ、この人が自分の家族だと、かなり迷惑ですが。

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 主人公のヘンリ・ミトワは、1918年、横浜でドイツ系アメリカ人の父と新橋の芸者だった母の間に生まれた日系アメリカ人。裕福だった幼年期から父親の米国帰国後は貧しい生活を強いられました。また日本では外国人として特高警察にマークされ、1940年に米国に渡ってからは敵性外国人として収容所に収監されています。ちなみに、収容所で日本人と結婚し、長女、長男ももうけています。

戦後は、ロスアンジェルスで仕事も成功し、幸せな家族を築きますが、日本に残してきた母親の死後、日本への思いが強くなり、日本に戻ることを決意。ここから家族を巻き込み、ある意味狂ったように、禅僧でありながらも人間臭く、あがいた人生。

傍から見ると、日本とアメリカのアイデンティティがかなり混乱しているように映りますが、肯定的にとると、日本文化、母親への愛、禅、映画などへのミトワの情熱が湧き出したものとも感じます。奥さん、子供達は、そんな暴君のミトワに翻弄され、時には喧嘩しつつも、冷静に受け止めているように見えたのも良かったです。

 

ところで、日系人強制収容所での経験について、ミトワは強制ではなく、自主的、ボランティアで入ったと語っているのが、アレっと思いました。単なる強がりかとも感じましたが、本人としてはやはり複雑な思いがあるのでしょうか。

強制収容所で行われた日系人に対する忠誠心を確認する調査項目には「米国に忠誠を誓い、日本への忠誠を放棄するか」「米軍に従軍する意思があるか」という2つの質問があり、日系人は YES / NO の選択を迫られました。「YES YES」と答えたものは米軍兵士として戦場に参加する道もあり、「NO NO」の場合は収容所に留められ、さらに環境の厳しい収容所に移されました。
ミトワは最初、「YES YES」と回答したものの、その後、「NO NO」に変更し、米国市民権を放棄し、日本への帰国を申請。そのため、収容所生活は長期化し、最初はヒラリバー収容所、それからトパーズ、トゥーレイクに移転しています。いわゆるノー・ノー・ボーイ だったんですね。ミトワはのちに米国市民権を回復しています。

映画の最後で、収容所で生まれた長女が、収容所跡地を訪問しているシーンがありましたが、収容所での経験も、後のミトワのアイデンティティの混乱ぶり、日本文化への傾倒に深く影響を与えたのではないかと思いました。

ノーノー・ボーイ

ノーノー・ボーイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画『エルネスト』、フレディ・マエムラの故郷ボリビア・トリニダと日系人

キューバ革命の英雄であるエルネスト・チェ・ゲバラ、そしてゲバラと共にボリビアで戦ったフレディ・マエムラを描いた映画『エルネスト』を見ました。

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映画は前半のゲバラ広島訪問と、後半のキューバボリビアに大きく分かれています。特に前半のゲバラの広島訪問の描写がとても良かった。平和公園原爆死没者慰霊碑に書かれている「(安らかに眠って下さい)過ちは 繰返しませぬから」になぜ主語がないのかと指摘したことや、原爆資料館の視察で「アメリカがこんなにひどいことをしたのに、どうして日本人は怒らないのか」という言葉、観光せずに原爆病院の患者を見舞うシーンなどは、ゲバラの人間的魅力、カリスマ性が感じられました。

ちなみに、碑文の英訳は「Let all the souls here rest in peace ; For we shall not repeat the evil」で、主語の“We”は、世界の全ての人々を指すとの解釈だそうです。

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そして、映画後半はボリビア日系人フレディ・マエムラキューバゲバラと出会い、ボリビアでの戦闘に参加して挫折する話。淡々と描かれている中で、オダギリ・ジョースペイン語での演技が素晴らしかった。見る価値ある映画と言えます。

 

さて、映画の主人公の一人であるフレディ・マエムラボリビア日系人です。ボリビア日系人といえば、戦後にサンタクルスに移住した方とその子孫が、オキナワ移住地とサンファン移住地を開発し、農業・牧畜を中心として現地で活躍されています。

しかし、ボリビアへの最初の移民は、そこから約半世紀さかのぼって、1899年と言われています。同年にペルーにサトウキビ農園の労働者として渡った日本人移民が、厳しい労働条件や生活環境を嫌って、4,000m以上ものアンデス山脈を越えてボリビアへ再移住しました。当時、天然ゴム生産が盛況であったのがボリビアのベニ県。リベラルタという街がその中心でした。その後も労働者が流入。ゴム景気が終わった後も、同じベニ県のトリニダや首都となるラパスなどにも転住し、現地女性と結婚し、農業や商業活動等に従事しました。

フレディ・マエムラ父親の前村純吉(1893年 - 1959年)は、鹿児島県出身で上記のようにボリビアに移民し、ボリビア人女性と結婚して、トリニダという街で商店を経営していたようです。その次男として生まれたのがフレディです。

ベニ県はボリビアの北東部にあり、その県都がトリニダです。トリニダには今でも日系人が居住し、既に三世、四世の世代となっていますが、日系人協会も存在しています。

トリニダはアマゾン川の支流の一つであるマモレ川の岸に位置しています。映画でもフレディが自分を「水の中の石」と錯覚するシーンが何度も流されていましたが、フレディの心の中にあったのが故郷のマモレ川であったのでしょうか。そして映画のエンディングに流されたのが、En las playas del Beniというボリビアで有名な歌でした。この歌も映画にマッチして良かった。

 

En las playas del Beni(ベニの浜辺で)

En las playas desiertas del Beni(ベニの砂の浜辺で)
un viajero de pálida faz (淡い顔の旅人が)
que al mecerse en su hamaca pensaba(ハンモックに揺られながら考えていた)
en su amor y su tierra natal(愛と故郷を)

Y mirando las ondas del río(川の流れを見ながら)
donde duerme el temible caimán(そこには恐ろしいワニが眠っている)
y espumosas se ven las cachuelas(泡立つ急流が見える)
con sus tumbos sepulcros cavar(墓を掘るように落ちながら)

Y ante el negro horizonte decía(暗い地平線を前に言った)
tal vez niña no vuelva jamás(おそらく娘は戻ってこないと)
y el rumor misterioso del bosque(そして森の神秘的な噂は)
contestaba ya no volverá(もう戻ってこないとこたえた)

※適当な翻訳なので、間違いがあるかもしれません。ご容赦ください。

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韓国移民歴史資料館を訪問。日本語のガイドもあり、充実した展示でした。

海外に在住する韓国人やその子孫は700万人以上と言われています。その移民の歴史を紹介している資料館がソウルの仁川にあります。「韓国移民歴史資料館」です。仁川は港町、最初の移民が旅立った地。日本にも横浜に「海外移住資料館」、神戸に「海外移住と文化の交流センター」があるのと同じですね。

今回、韓国を訪問する機会を利用して、この「韓国移民歴史資料館」に行ってきました。ソウル市内から地下鉄などを使い約1時間半。仁川駅からバスで10分程度と、結構時間がかかります。

 

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「韓国移民歴史資料館」は2008年に開館。地下1階、地上2階の展示スペースがあり、なかなか立派な施設です。日本語のパンフレットのみならず、日本語音声ガイドも用意されていて、日本人もちゃんと理解できます。(横浜の海外移住資料館よりも外国人フレンドリーです。)

 

資料館によると、韓国人の海外移住は1860年代の中国、ロシアから始まったとされていますが、集団移住としては1902年に出発した政府公式認可ハワイ移民が最初。1903年にハワイに到着していますので、2003年が移民百周年でした。日本のハワイへの官約移民は1868年に始まっていますので、それから35年後のことになります。

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韓国移民102名がハワイに向かって乗船したのが米国客船ゲーリック号。館内にはゲーリック号の外観が展示されています。

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韓国移民は仁川から日本の客船玄海丸で長崎に寄港し、そこでゲーリック号に乗り換えハワイに向かいました。日本到着を伝える新聞記事です。

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移民家族の様子。102人のうち、健康検査の結果、最終的には86人が移民を許されたとのこと。

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中南米への移民は1905年のメキシコが最初。日本の斡旋業者により、サボテン科のエネケン(Henequen)の栽培農場で働きました。しかしながら、過酷な労働環境により、キューバに再移住したものも多かったとのことです。

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ブラジルへの移民は在日韓国人が最初のようです(年代不明)。 1956年には朝鮮戦争の囚人50名が国籍を持たずブラジルに渡っています。その後、1960年代は農業移民、1970年代は衣料産業の民間業者がブラジルに移住しています。資料館で見たデータによると在ブラジルの韓国人は約5万人ということですので、あまり多くはないですね。

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 地下一階ではハワイ移民の企画展が開催中でした。映像で歴史を紹介する形式も横浜の移住資料館と同じ。なかなか充実した展示でした。

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ソウル市内からちょっと時間がかかるので短時間の滞在では難しいかもしれませんが、受付の方も親切で、とても良い資料館でした。資料館の概要は展示内容は以下のサイトに詳しいです。

www.konest.com

仁川には中華街もあり、これも横浜や神戸と同じですね。資料館と併せて訪問してみてはいかがでしょうか。

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アトランタ・ブレーブスのルイス・ゴハラが日系ブラジル人として初のメージャー登録、そして初勝利!

アトランタ・ブレーブス日系ブラジル人ルイス・ゴハラが2017年9月5日に初のメージャー登録され、初登板となった7日のテキサスレンジャーズ戦では黒星を喫したものの、14日のワシントン・ナショナルズ戦では6回を6安打2失点に抑え、初勝利をあげました。サイ・ヤング賞を受賞しているシャーザーに投げ勝っての勝ち星でした。

【略歴】 

ルイス・ゴハラ(郷原)Luiz Henrique Pego Gohara

生年月日:1996年7月31日(21歳)

身長/体重: 191cm/95kg、左投げ左打ち

出身:ブラジル・サンパウロ州・トゥパン(Tupã)

 

ルイス・ゴハラは1996年ブラジル生まれの21歳。サンパウロ市から北西に約500キロにあるトゥパン市の出身です。隣町のパストスには日系人の戦前からの集住地がありますが、トゥパン市にも農業等で日本人が入植しています。ちなみに、甲子園で活躍し中日ドラゴンズに在籍した瀬間仲ノルベルトさんもトゥパンの出身です。

以下の写真はシアトル・マリナーズとサインした時のもの。ブレーブスの写真を見ても、結構、貫禄ありますね。投げている様子は、ヤンキース等で活躍しているサバシアを彷彿とさせます。

ルイス・ゴハラは子供の頃から野球を始め、14歳になるといイビウナのヤクルト野球アカデミー(Centro de Treinamento Yakult/CBBS)に参加。ブラジル代表に選ばれるなどの活躍を見せて、MLBにも注目されるようになりました。メジャーリーグとの契約が解禁となる16歳で、2012年8月、シアトルマリナーズと88万ドルの6年契約を結びました。
2017年1月、アトランタ・ブレーブスへトレード。  2017年シーズンはA、AA、AAAと着実に成績を残し、9月のロスター拡大を受け、9月5日に初のメージャー登録されました。ブラジル人として5人目のメジャーリーガー、そして日系ブラジル人としては初の快挙です。

過去2戦の成績は以下の通り。現在1勝1敗、防御率6.30です。

 

日付 対戦相手 投球
回数
被安打 奪三振 与四球 失点 自責点 被本
塁打
9/7 Texas 4回 4 6 4 6 6 1
9/14 Washington 6回 6 6 0 2 1 0


先発左腕としては世界最速クラスのMAX101mph(162キロ)、高速スライダーやチェンジアップを武器としています。 

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今シーズンは更に経験を積んで、来年はしっかりとローテーションに入ることを期待しています。

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山口県周防大島町の「日本ハワイ移民資料館」について:移民の島にある貴重な資料館です。

日本人の海外移住に関する資料館としては、横浜の「海外移住資料館」や神戸の「海外移住と文化の交流センター」が有名ですが、常設・公開している施設として山口県周防大島町(すおうおおしまちょう)に「日本ハワイ移民資料館」もあります。

日本ハワイ移民資料館

日本ハワイ移民資料館

 

なぜ、瀬戸内海に浮かぶ山口県の島に「日本ハワイ移民資料館」があるのか不思議に思うかもしれません。もともと山口県は海外移住の多い県の一つですが、その中でも、ハワイについては大島郡からの移住が突出して多いからなのです。

1885年(明治18年)の第1回官約移民でハワイに渡った日本人944人のうち、山口県出身者が420人、その内数として大島郡からは305人が占めていました。1894年(明治27年)までの10年間の官約移民を通じて、山口県から10,424人がハワイに移住していますが、大島郡からの移住者が3,913人と3分の1以上を占めていたのです。

ちなみに、10年間のハワイ官約移民を都道府県別に見ると、広島県(11,122人)、山口県(10,424人)、熊本県(4,247人)、福岡県(2,180人)、新潟県(514人)の順となっており、やはり広島と山口が多いことがわかります。

瀬戸内海の島である周防大島町からの多かった理由としては、江戸時代中期以降人口増加が著しかった中、島の限られた土地では生活ができず、伝統的に大工・石工・船乗りなどによる出稼ぎが盛んであったこと、さらにハワイ移民の話が持ち上がったころには、全国的な不況に自然災害が加わり、人々は餓死寸前まで追い込まれていた状況であったと言われています。

 

この「日本ハワイ移民資料館」は第1回官約移民船がハワイに到着した1885年(明治18年)2月8日にちなみ、1999年(平成11年)2月8日に開館しました。建物は、本人も移住者であった故福元長右衛門氏の遺族の方から寄贈されたものです。木造瓦葺き入母屋造り二階建てで、1928年(昭和3年)に建造された立派な邸宅です。

館内には、ハワイ移民者の苦難の歴史や、先人が苦労して得た財貨が郷土の文化・経済の発展に貢献した事績、今日に至るまでの交流の歴史が展示されています。

■移民たちの労働と生活コーナー

移民たちの労働や生活の様子を、写真やその道具などから知ることができる。

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■官約移民歴史コーナー

日本訪問時のハワイ国王カラカウア王の写真などが展示してある。

官約移民歴史コーナー

■シアタールーム

移民たちの当時の様子、現在の交流の様子などを、フィルムで見ることができる。

シアタールーム

 

また、この資料館では約13万人の渡航記録を公開しており、多くの日系人が祖先のルーツをたどる目的で訪れています。 もともとは約3万人分の渡航記録を有していましたが、2年ほど前からルーツを探しに来る日系人が増加したため、昨年、外交史料館所蔵の渡航記録の原本を接写し、新たに約10万5000人分を名前から検索できるよう「海外渡航者名簿」を作成したとのことです。

www.yomiuri.co.jp

 

周防大島町に公共交通機関で行くには、JR西日本山陽本線大畠駅から大島観光タクシー乗り合いバス奥畑行きで「屋代橋」下車。そこから徒歩3分の場所です。

東京から行くにはなかなか大変ですが、貴重な資料館ですので、是非、機会があれば訪問しては如何でしょうか。大島大橋から見る瀬戸内海と島の景色は素晴らしいです。

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JICA海外移住資料館、来館者50万人突破!

2017年8月25日(金)、JICA横浜にある海外移住資料館の来館者数が50万人を突破しました。50万人目となったのは、女子中学3年生と引率の先生でした。その時、たまたま、資料館を訪問しており、お祝いの模様に遭遇しました。

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JICA海外移住資料館、来館者50万人突破! | 2017年度 | トピックス | JICA横浜 - JICA


海外移住資料館は、2002年に開設されていますので、15年で50万人を超えたことになります。年間平均にすると33,000人の来館ということになりますが、2013年3月に30万人、2015年9月に40万人を迎えていますので、近年、入場者数が確実に増えているようです。常設展示に加え、様々な企画展も定期的に実施しており、来館者増に向けた取り組みが上手くいっているのでしょう。現在、米国ハワイの日系社会を特集した「写真展 ハワイ日系人の歩み」を開催中です。ハワイの日系人といえば、今年5月にホノルル空港から「ダニエル・K・イノウエ国際空港」に改名して話題となったイノウエ元議員、宇宙飛行士のエリソン・オニヅカ、オバマケア撤廃反対を命懸けで呼びかけたメイジー・ヒロノ上院議員ウクレレ奏者のジェイク・シマブクロなどが有名です。ハワイ日系人に関する映像資料も上映しています。展示期間を9月18日まで延長されたとのことですので、是非、この機会に訪問されてはいかがでしょうか。

JICA横浜 海外移住資料館 写真展「ハワイ日系人の歩み」

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