日系 Nikkey パートナーズ

日系人、ボランティア、開発について、自分の勉強のためにも書いていきます。

【訃報】元格闘家のドン・中矢・ニールセン(日系三世)が死去、ルーツは愛媛

昔の格闘技ファンにはお馴染み、1986年に前田日明異種格闘技戦を戦い、日本の総合格闘技ブームの火付け役にもなった格闘家(キックボクサー)のドン・中矢・ニールセンさんが8月15日、バンコクにて亡くなったとの報道がありました。享年57歳でした。まだ若いのに残念なニュースです。

efight.jp

ドン・中矢・ニールセンといえば、なんといっても、1986年10月9日 - 両国国技館で行われた新日本プロレス「INOKI 闘魂 LIVE」での前田日明異種格闘技戦です。当時、生放送で見ていましたが、伝統的なプロレスに中心の世界において、衝撃的な一戦でした。前田を格闘王へと導くとともに、UWFK-1へとつながる格闘技ブームの発端を作った立役者の一人と言えます。ニールセンは、その後も、プロレス、キックで日米で活躍しました。(戦績はWikipediaに詳しくまとめられています;ドン・中矢・ニールセン - Wikipedia

www.youtube.com

引退後はタイにてカイロプラクティック院を経営していました。HP上に写真を見つけましたが、なんだか年を取った感じですね。昔はかっこよかった。

www.bioenergyasia.com

 

【略歴】

ドン・中矢・ニールセン(Don Nakaya Nielsen)

1960年7月8日 - 2017年8月15日

アメリカ合衆国ロスアンジェルス出身

日系三世(祖母が日本人・愛媛県出身)

学歴:

Whittier College on a football athletic scholarship (大学時代はフットボールをしていたようです。チームの名前がPoetsとかわいい感じです。最近の戦績を見ても強くないです。)

●Cleveland Chiropractic College in Los Angeles (ここで1986年にカイロプラクティックの資格を取ったようです。前田と戦った年ですね。もうこの学校は閉鎖されています。)

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愛媛県からの米国移住の歴史】

ドン・中矢・ニールセンは祖母が日本人の日系三世ですが、ルーツは愛媛県にあるようです(昔、週プロか格通でお墓参りの記事を見たような)。「中矢」という姓は愛媛に多い姓です。柔道のメダリストの中矢力選手も愛媛出身ですね。

せっかくなので、愛媛県からの米国移住の歴史を振り返ってみます。

愛媛からの移住先としてはブラジルが第一位となっていますが、米国本土への移住を見てみると、羅府日本人会管轄下(大正八年)によると人数では191人で1.2%にすぎず、全体としては多い県ではありません。戦前・戦後を通じて同様の傾向。ハワイへの移住者も多くはありません。明治元年以降の官約移民も愛媛県人はいない模様(水夫に県人がいたという説もあり)。いずれにしろ、中国地方や九州地方には米国への移住者は多いのですが、四国は全体的に少ないです。

愛媛県移民に関する詳しい資料はありませんが、県民の移民史の中では「打瀬船による若者の密航」が語り継がれているようです。海賊の伝統を持つ者たちが自力で移住を試みたとのこと。勇ましいですね。概略は以下。

「初期移民の多くは、背後は山、前は海で、漁業を主としながらも村上水軍・河野水軍・塩飽水軍など海賊の伝統も持つ冒険心に富んだ南予出身者に多い。明治36年16人の若者が50フィートの打瀬船で出航し、嵐に遭遇しながらも59日目に米国太平洋岸のアレナ海岸に漂着した。無念にも二日目には全員が捕まって強制送還されたが、後にはほとんどがさまざまな経過を辿ってアメリカ移住を果した。」

なお、2010年には「南加愛媛県人会」は創立100周年を迎えています。会員数は100名と、こじんまりとしていますが、日本との交流等は定期的に実施されているようです。

www.ehimekenjinkai.com

 

【参考データ等】

データベース『えひめの記憶』「米国への移住」  

  データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム

“アメリカでもっとも成功した日系スーパーマーケット”と呼ばれる
宇和島屋」創業者・森口富士松とその家族の歴史をたどって

  http://www.ccr.ehime-u.ac.jp/rci/nenpo/12/10.pdf

 

 

ohatyuu.hatenablog.com

 

 

『七人のトーゴー』戦後アメリカで日系人が咲かせた毒の花

村松友視氏の日系人悪役レスラーを題材にした『七人のトーゴー』を読みました。村松氏は直木賞を受賞した『時代屋の女房』などで有名ですが、1980年代、90年代は『私、プロレスの味方です』を始め、プロレスファンのオピニオンリーダーでもありました。この『七人のトーゴー』は1982年に出版されており、プロレスの書籍を積極的に出版していた時代のものです。(表題も含め、計6つの短編集)

七人のトーゴー (文春文庫 (328‐1))

七人のトーゴー (文春文庫 (328‐1))

 

 物語は洋書店で手に入れたアメリカ「レスリング」誌に「七人のトーゴー」という不思議なタイトルの記事を村松氏が見つけたことに始まります(本人が登場するノンフィクション仕立て)。記事によると、「七人とトーゴー」とは、第二次世界大戦後、アメリカに排出した日系人プロレスラー七人の総称。いずれも真珠湾奇襲攻撃にイメージされる「卑怯なジャップ」像を使って、アメリカ人観客の憎悪をかうことで人気と財産を得悪役、ということです。具体的には、グレート東郷、トシ東郷(ハロルド坂田)、ミスター・モト、キンジ・シブヤ、オーヤマ・カトー、デユーク・ケムオカ、グレート・ヤマトの七人

この記事を契機として、私こと村松氏は「七人のトーゴー」のイメージの原点である真珠湾奇襲攻撃の現場を見るためハワイに旅に出ます。そこで日系レスラーの活躍ぶりについて聞き出すため、力道山時代のレフリーとしても有名な沖識名へインタビューしつつ、「七人のトーゴー」などについて思索するという内容です。

この「七人のトーゴー」それぞれについて、他資料から調べてみた内容をまとめます。

 

1.グレート東郷

本名:George Kazuo Okamura

日本名:岡村 一夫(おかむら かずお)

1911年10月11日 - 1973年12月17日

オレゴン州フートリバー出身

終戦直後にまだまだ残っていた反日感情を利用してヒールとして活躍。当初のリングネームは「軍国主義の頭目」と見られていた東條英機の苗字にあやかった「グレート・トージョー」。しかし「東條」の名字をそのまま使うのはあまりにもアメリカ人を刺激しするとの判断から、同じく著名な軍人である東郷平八郎にあやかって「グレート東郷」に変更したと言われる。窮地に陥ったときの卑屈な懇願のあとの「股間への蹴り」や塩による「目潰し攻撃」などの反則技を売り物とした。卑屈に許しを乞うた後のいきなりの反則は、当時のアメリカ人の観客に「日本軍のだまし討ち」とされていた真珠湾攻撃を連想させ、大いに怒りをかった。このトーゴーのスタイル(卑劣かつ姑息な反則技や薄ら笑い、東洋風のコスチューム、塩をまく「儀式」など)はその後しばらくの間アメリカにおける日本人および日系アメリカ人ヒールレスラーの雛形となり、他の日系人レスラーに受け継がれている。ちなみに、日本のリングでは、頭突き攻撃や空手チョップなどの技を使い、根性溢れるベビーフェイスとして活躍した。

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2.トシ東郷(ハロルド坂田)

本名:Harold "Toshiyuki" Sakata

日本名:坂田敏行(さかた としゆき)

1920年7月1日 - 1982年7月29日

ハワイ州ホノルル出身

プロレス入りする以前にはロンドンオリンピックの重量挙げ(ライトヘビー級)ではアメリカ代表として銀メダルを獲得。プロレスでは反日感情を利用したヒール(悪役)として活躍。またグレート東郷の弟、トシ東郷を名乗り、タッグチーム「トーゴー・ブラザーズ」としても活動。1964年には映画『007 ゴールドフィンガー』でツバに刃物を仕込んだ山高帽を投擲する用心棒のオッドジョブ(Oddjob)を演じ有名となった。

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3.ミスター・モト

本名:Masaru "Charlie" Iwamoto

日本名:岩本勝(いわもと まさる)

1915年8月11日 - 1991年7月6日

ハワイ州ホノルル出身

リングネームは1930年代にヒットした日本人探偵を主人公にしたコミック「ミスター・モト」から取ったもの。ハワイ相撲の横綱を経てプロレス入りし、キンジ渋谷とのタッグで様々なタイトルを取り、またミスター・サトー大木金太郎)とのコンビでWWA世界タッグ選手権を獲得するなど活躍した。

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ちなみに、このリングネームの由来となる日本人探偵「ミスター・モト」は以下に詳しい。

matome.naver.jp


4.キンジ・シブヤ

本名:Robert "Kinji" Shibuya

日本名:渋谷 金持(しぶや きんじ)

1921年5月16日 - 2010年5月3日

ユタ州出身(ロスアンジェルス育ち)

グレート東郷の影響下にある日系ヒールとして、現役選手時代は地元のロサンゼルスやサンフランシスコなどアメリカ西海岸を主戦場に活動。マサ斎藤をはじめ、海外武者修行に出ていた日本人選手を公私に渡ってサポートし、彼らのメンターとなったことから「神風親分」の異名を持つ。

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5.オーヤマ・カトー

本名:Shinichi "Stanley" Mayeshiro

1919年1月7日 - 1961年1月9日

ハワイ出身または沖縄出身のハワイ移民

マネージャーのミスター・スギを引き連れてリングに登場。小柄ながらもテクニシャンだったといわれる。オハイオを中心に活躍し、オハイオ・タッグをタロー・サクローとのコンビで獲得している。活動期間は短く、1961年にテキサス州ヒューストン(カナダのバンクーバー説もあり)でジョー・ゴードンとの試合中に心臓部にドロップキックを受けてショック死するという悲惨な最期を遂げた。

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6.デユーク・ケムオカ

本名:Martin Hisao Tanaka

日本名:田中久雄(たなか ひさお)

1921年4月22日 - 1991年6月30日

カリフォルニア州サクラメント出身

テキサスやフロリダなどのアメリカ南部を主戦場に、同時代の日系レスラーと同じく戦後の反日感情を利用したヒールとして悪名を馳せたが、キャリア後半はベビーフェイスのポジションでも活躍した。アントニオ猪木グレート草津など海外修行時代の日本人選手のタッグパートナー兼メンターも担い、日本陣営の助っ人として日本プロレスにも度々参戦。現役引退後はNWAフロリダ地区のブッカーおよびプロモーターを務めた。

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7.グレート・ヤマト

本名:Toyoki Uyeda

生年月日は不明 - 1960年12月11日

1950年代にアメリカで活躍した日系人で上田トヨキが本名だとする説もある。日本のゴージャス・ジョージと呼ばれ、豪華な衣装をまとい、白人女性の妻(ハナコさんと名乗った)を従えてリングに登場した。ヒールながらいろ男ぶりに女性ファンが多かった。しかし1960年にあまりのもてっぷりに嫉妬した妻に射殺されるという悲惨な最期を迎えた。

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オーヤマ・カトーとグレート・ヤマトについては、SPAの斎藤文彦氏の記事が詳しい。

nikkan-spa.jp

「”トーゴー・スタイル”は、腕と度胸で稼ぎまくったと評されているようなのどかなものではなく、祖国日本、日本軍の真珠湾奇襲攻撃、親たちの皇国崇拝、アメリカ人の白眼視・スパイ視、二世部隊の特攻精神、そして嘘と本当のつなぎ目の判然としない日系アメリカ人という立場・・・それらのあらゆる断片がかき回されて咲いた毒の花」

この本に紹介されている七人のレスラーの他、多くの日系人・日本人がプロレスにおいて活躍してきました。エンターテイメントであるが故に、時代のニーズや社会的背景によって日本人や日系人の役割(ギミック)は変遷してきていますが、かつて第二次大戦後しばらくの間は、このトーゴー・スタイルが最も嫌われた(支持された)悪役キャラクターだったということは記憶しておきたい事実です。

 

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宮内悠介氏『半地下』アイデンティティ、言語や人種、性や生のあいまいな感覚、プロレスをモチーフに

宮内悠介氏の「半地下」を読みました。宮内氏の処女作に手を加えたものを「カブールの園」とともに収録。

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主人公は日本人の姉弟。事業で失敗した父にニューヨークまで連れてこられ、そのまま置き去りにされた姉ミヤコと弟ユーヤの物語。現実と虚構、生と死、言語、人種など、境目があいまいな「半地下」のような場所で生きていく。

個人的な関心事項で整理すると:

1.アメリカンプロレス

姉のミヤコはプロレスラーとして稼ぐ。米国の人気プロレス団体であるWWEをモチーフに、CEOのビンス・マクマホンやアンダーテイカーなどを想像させるキャラクターも登場する。WWEはマクマホン・ファミリーをストーリー(アングル)に取り込むなど、エンターテイメント路線でブームを起こした団体。(ちなみに、トランプ大統領も登場したこともあり、またマクマホン・ファミリーの母親であるリンダはトランプ政権で中小企業庁長官に就任している。)暴力、色気、不貞、流血、犯罪、下品さなど、様々な悪徳がストーリー(アングル)やレスラーのギミックに使われており、それ故に非難されることもあるが、それも含めてストーリーに取り込んでしまう強さがある。

ミヤコは試合中の事故で死んでしまうが、その死もショーの中で消費される。「これが大がかりな現実逃避なのか、それとも現実に対するカウンターなのかはわからない。現実程度、ひっくるめて虚構に取り込んでやる。そう宣言するエディの声が聞こえてくるようであった。」「現実をまるごと虚構に取り込んでしまえーそのエディの妄執の最たるものが、そして彼なりの最高の弔いが、姉の葬儀の場面だった。」

 

2.アメリカにおけるアイデンティティ

恋人のシャーマンから「ミヨコ」と発言される「ミヤコ」。彼女は間違って発音される「ミヨコ」という名前を気に入っていた。それは「彼女がアメリカで手に入れた新たなアイデンティティであり、人種開放を唱える団体から祖国での発言に合わせるべきという押しつけの批判は、むしろ彼女自身を傷つける。アメリカ人が呼びやすい発音・イントネーションの名前を得ることでアメリカ社会に居場所を見つけるという感覚は理解できるように思います。「私は、自分が自分でなくなりたいとは思わない。」怖いもの知らずの難民の少女というアノニマスではなく、アメリカ人で認められた証として。

 

3.日本語と英語

ユーヤはアメリカに連れていかれたことで、ある日突然英語の世界に投げ込まれた。成長していく過程で、頭の中で英語と日本語が両立せず「英語が自分の中の日本語を追いつめ、日本語が自分の中の英語を追い詰める」感覚に悩む。死の間際で姉が語ったメッセージについてユーヤは「英語の日本語のまじりあった姉の混乱は、エロスを感じさせもした。それは意識レベルを下げての観念や音の記憶の連鎖でしかない。まったくのノイズだ。・・・二重写しの世界のように、英語と日本語の意識が同時に立ち現れる。『ニルヴァーナ』」ニルヴァーナ」とは仏教用語の「涅槃の境地」であり、煩悩の火を吹き消した状態を指す。

 

外国における少年時代の葛藤、心の傷、友情や秘密など、はっきりではなく、とてもあいまいな感覚ではありますが、ぼんやりと切なく心に響く作品。特に姉のミヤコがユーヤに最後に伝えたフレーズが心に残りました。

裕也。I'm still here. ありがとう。

 

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もう一度 日本に出会いたい~日系ブラジル人 柔道選手(2月19日 21:00-21:50 NHK BS1で放送)

NHK BS1の「世界はTokyoをめざす」という番組で、日系ブラジル人の柔道選手が特集されます。

www6.nhk.or.jp

リオ五輪で惨敗を喫したブラジルの男子柔道。その再起のため、動きだしている選手がいる。日系4世のバルボザ・カツヒロ(25)だ。柔道の総本山、講道館を訪れ、日本人選手と切磋琢磨することで新たな一歩を踏み出そうとしている。カツヒロのような若い世代は、日本に対する思いはそれほど強くない。しかし、東京五輪をきっかけに、祖先の国を見つめ直そうという動きが広がっている。東京を見据え、猛練習に励む日々を見つめる。

 

柔道王国といわれるブラジル。その中で、日系人選手も活躍してきました。しかし、リオオリンピックでは惨敗。日系では、知花選手やキタダイ選手ともメダルが期待されましたが、届かずでした。

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五輪柔道=期待の日系2人、夢破れ=知花は初戦敗退、海老沼に=キタダイ健闘もメダル届かず – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB

 

今回TVで紹介されるバルボザ・カツヒロさんは、少年時代を日本で過ごした後、ブラジルで大学、クラブチームで経験を積んで、ブラジル代表になっています。お父さんも柔道選手、お姉さんは北京オリンピックにブラジルから出場しています。

そのバルボザ選手、2016年12月のグランドスラム東京に出場しています。一回戦でロンドン五輪の銀メダリスト・中矢力と対戦し、残念ながら一本負け(横四方固)しました。以下のサイトで試合の模様を見ることができます。

www.tv-tokyo.co.jp

バルボザ選手も含め、今後とも日系ブラジル柔道選手に注目したいと思います。


日系の柔道選手に声援 東京五輪へ、熱い期待